狩野ハスミ論

永山薫


 本コラムは新刊案内のページじゃないんだけど、最近みっけたショタ本の中では狩野ハスミ「FUCK・S」(桜桃書房)が相当にキテるのだった。狩野の単行本デビューは96年の「D」(ヒット出版社)。これは成年マーク付きのいわゆる美少女系エロマンガ。この時は、色々な作家(桂正和とか奥浩哉とか)の影響入ってるけど繊細な線の描き込みとトーンワークに気合いが入ってて絵的にすげー面白いと思った。お話の方は饒舌で観念突っ走り型で、波長合わない読者には独りよがりな「読者おいてけぼり」路線に読めるだろうが、波長合っちゃうとトコトンはまるんだろうなという感じ。なんか基本的に普通の美少女系エロとは漫画文法の組立てが違うのでそーゆー系を主に読んでる読者にはなじみにくいかもしれない。

 で、最新単行本の「FUCK・S」。やおい本の「GUST」掲載作品を集めた一冊。中身はもう完全にショタの嵐。そうか、この人の主戦場はむしろコッチであったのか。文法が違うのも当然の話。出自からして違うのだ。

 しかし、よくあるアニメ絵系やおいショタとも全く違う世界。こんだけ個性的でキレまくってる世界ってのは「作家性が強い」という便利なカテゴリーに投げ込むしかない。あえてクラスターを作れば、宮西計三、はらざきたくま、西崎まりのというあたりか? これだけ趣味に走りまくった絵を丹念に描き続けるというパワー。読者はそのフォースにねじふせられる。例えば宮西計三もそうだった。物語自体は常に舌足らずでありながら、ベルメールの流れを汲む(師匠の真崎守とは全然似てない)異様なまでに美しく病んだ描線で紡ぎ出す世界は見る者をして恍惚とさせたものだ。もちろん狩野ハスミは宮西ほどは病んでいない。より通俗的であり、一般性という呪詛から抜け切ってはいない。もちろん比較は無意味であろうが、そういうことなのである。

 狩野ハスミの描く「物語」は、学園を舞台とした男の子と男の子の恋物語。もちろん今時の子たちであるからして、ちゃんとセックスまでやっちゃう。筋立てそのものはごくありがち。ちっちゃい時からスキだったあの子が、最近別の子と怪しい…けどその子はやっぱりボクがスキだった…という他愛もないラブコメだとか、何度も時間が巻き戻される「時を駆ける少女」パターンのSFだとか、美少年に呪縛されマゾ的な愛に溺れる少年だとか、そういった物語の枠組みだけ取り出して見れば特に新鮮ではない。

 だが、普通そういう筋立で描かれる絵とは全く違う。キャラが違う。目の大きな、スリムでしなやかな男の子たちは趣味に走ったコスチュームで登場する。パンク系のレザー&スパイクだったり、ボンデージ系のエナメルなボディスだったり、ユニセックスな、どちらかといえばフェミニンにシフトした装いだったりする。しかし断っておくが彼らはホンモノのきちゃないハードコア・パンクスでもないし、SM野郎でもトランスペスタイトでもない。カワイイし、似合うからそんなカッコしてるだけだ。不良っぽい言動も今時のガキ的こじゃれたセリフもまたスタイルにすぎない。

 そんなこんなの現実には到底あり得ないファッション(もちろんクラブとかディスコとかのハレの場は別)の、これまた現実にはいそうもない中性的な少年たち。日常的なリアリティは希薄で、狩野ハスミとハマった読者の脳髄にのみ棲息するような彼ら。彼らがたとえ立派なペニスを持っていたとしても、本質的には無性の自動人形のように見える。精巧な人形が「フツーの男の子と女の子のラブコメ劇」あるいは「生身の男と女が生理的心理的に没入するSM劇」を演じる時に否応なく励起されるシュールな感覚。そう、これは漫画というよりは演劇空間に近い。それぞれの役、「ラブコメなヒロイン」「SFな主人公」「屈折した愛情に悶える変なヤツ」等などのステロタイプな役を振られた自動人形たちが思い思いの衣装で繰り広げる祝祭演劇なのだ。

 そこには「D」にはあった、男女間の、あるいは同性間の愛と欲望の生々しさはない。あるのは少年人形同士の匂いのない、きらびやかだが空虚な演劇空間だ。どこまで作者本人が自覚的にやっているかなんてどうでもいいことだが、リアリティを削ぎ落とし、表層を装飾するという、凡庸な編集者や評論家が否定するであろう方向性、これがこの人の個性なのである。狩野ハスミが描き出す装飾的かつ演劇的な「空虚」は読者一人一人の妄想を刺激し、読者それぞれの脳内で肉付けされ、補完され、カスタマイズされることによって完結して行く。その意味で読者を選ぶタイプの作家&作品だろう。とりあえず御試食を。


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