拝狼論

永山薫


  最近の拝狼はちょっとヘンだ。もともとは巨乳系で軽い茫洋とした淡白なユーモアが面白くもあり、退屈でもありというとらえどころのない作家だったのだが、「紫苑の夜」(95年・富士美出版)ではこれまでとは作風をガラリと変えたシリアスな実験作をかましてくれた。主人公は女をモノとして見ていないようなワル。こいつが子連れバツイチの豊満な女に溺れて自滅するといく暗いオハナシなのだが、バツイチ女には美少年な息子がいて、濃厚な母子相姦ありの、主人公のワルとのガチンコな肛門性交ありの3Pとハードな内容。作品的にはこれまでの軽い作風のギャップがありすぎてイマイチ評価できなかったのだが、エロ関係はぶっ飛ばしてんなあって印象だった。いかに流行とは言え男と少年のモロ関係をグリグリ描くなんざ、結構勇気がいることだし、好きでなきゃできないことだ(そう言えば同じ頃に出た男の子本のハシリである「アンダーカバーボーイズ」(茜新社)にはカトちゃんという拝狼クリソツの絵を描く人がいたっけ。別人ってことだろうがこっちは女装美少年と美少年のセッション「ホワイトサンド」と同作に出た二人にガイジン美少年を加えた三連ケツ「T・F」なんてのをテーマの強烈さとは裏腹の淡々とした筆致で描いてくれていた)。

 という風なワケでこの人もショタっけありと分類しておいたら最新刊の「ゼロゼロ」(富士美出版)では、美少年がゾロゾロ。表題作シリーズは全6話。いずれも道端のミカン箱に小学生体型の美少年が捨て猫のように捨てられているのを、心優しきお姉さんが拾ってきて寵愛するというパターン。拝狼らしい淡々としたユーモア路線だ。いずれの少年もどっかのお屋敷でペットとして飼われていたらしいのだが、それ以上の説明はない。おそらくこれもバブルの後遺症ってヤツなんでしょうか? で、登場する男の子は、ウケも攻めもバッチリなオールマイティな01、ウケ専門でちょっちMな02、いつの間にかゴシュジンサマをこき使っている攻めの03、ボケとツッコミで延々漫才する04と05のコンビという計5名。第3話「少年01&02」で少年同士のキスからフェラチオというセッションが登場するものの、基本はお姉さんと少年のカラミだ。攻め中心の03を除き、いずれも積極的なのはお姉さんサイド。特にマゾ体質の02を拾ったお姉さんは「ポチ」と呼んで、仮性包茎ちむぽをリボンで縛ったり、騎乗位で犯したりとカサにかかったHなオシオキを展開する。

 後書きによればこのシリーズ第一作「少年01と+」は「実験的に描いてみた男の子マンガ。非難ゴーゴーかと思ったら意外とウケが良かった」そうである。

 俺が面白いと思ったのは実はソコなのだ。勿論作品も面白いのだが、こうした男の子趣味丸出し作品が単発の実験作ではなく、単行本の半分を占めるシリーズとして成立し、なおかつ単行本の表題作となれる(つまりウリになる)こと自体が興味深いのである。

 拝狼の男の子路線は同性愛志向とはまた違う世界である。その中には同性愛的要素も含まれるが、それが総てではない。基本は、恐らくは作者自身の、そして読者の「可愛い男の子になって誰かに可愛がられたい」という受け身願望である。旧来のマチズモ(マッチョ)志向の攻めのセックスって一方位的にブイブイ攻めてるようで、よほどのバカでないかぎり、多少とは言え、相手の反応とか気分とかに気をつかうし、リードするのは結構メンドーだし疲れるのである。そうしたマチズモ志向に対して、最近の若いヤツって結構疲れてきてるから、こうした受け身の性をすんなり受け入れられる。性風俗産業だって、受け身オンリーでプロが全部やってくれるソープやヘルスのシェアがデカイのだ。そうしたことを考えると拝狼の描く女性の多くが巨乳であることも一種の「母性渇仰」として捉えることが可能だろう。拝狼に限らずこれまでのエロマンガでは、そうした受け身志向やマザコン感覚は描き手と読者のマチズモ的プライドによって巧妙に隠蔽されてきたわけだが、それが今やボロボロと崩れて来ている。もちろん、精力的な男がガンガン女を喜ばせるセックス・ファンタジーが廃れることはないだろうが、昔よりは減って行くはずだ。それに代わって台頭してくるのが「受け身でもマザコンでもマゾでも気持ちよければいーじゃん」という連中だ。グランジなボロボロなファッションで地べたに座り込んでいるキョービのガキどもを見れば、「ちっとでも楽な方」へ流れてる時代の気分が見えてくる。それがいいことなのかどうかは歴史が判断するだろうが、少なくとも正直であることは間違いない。その意味でも拝狼の「ゼロゼロ」は象徴的なのである。


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