みにおん論

永山薫


 みにおんの漫画を最初に見たのは94年5月奥付の「チェリームーンSUPER(1)](桜桃書房)に掲載された「手取り足取り」だった。

 このの時のちえりむーのテーマは「ふたなり十美少年」みにおんの作品は漫画家のお兄ちやん(机の上には「ソーサリータ」の原稿が…)のところにセックスを教わりに来た半ズボン少年が、

「女の子の立場になれなきや、気持ち良くさせるなんてできないぜ」

 という漫画家のムチャな論理に圧倒されて、キスからアナrイングスによつてメロメロにされ、最後にはお尻のパージンを奪われてしまうという代物たった。この当時(といってもほんの3年前にすぎないが…)、女装抜きでのガチンコ・ホモシーンは珍しく、思わずのけぞったのを憶えて。当然、俺としては一本抜いて、みにおんの名前を脳回線に刻みつけたのだった。

 みにおんはこれまでに、ロリ味な長編ファンタジ「魔童桃語ソサリータ(1)(2)」(未完・一水社)、ランドセル世代の少年少女とHな若い叔母との問係を描く連作を中心とする「DEAR LITTLE LOVERS」(一水社)、ロrリとショタとパロを詰め込んだ,最新単行本の「Hair Trigger」(桜桃書房)と以上4冊の単行本を上梓している。全体的なパランスから一目えばややロリの方が多いのだが、ショタもかなり多く、「Hair Trigger」に至っては西遊記パロディの「天竺少年隊」をショタに数えると形勢は逆転してしまう。と言っても本来ショタの作家が世を忍ぷ仮の姿としてロリに手を染めているワケではない。直感で言ってしまうが、ロリもショタもみにおんにとっては等価なのだ。ランドセル世代の子供であること。これさえクリアしてしまえば男の子も女の子も関係ない。それはロリとかショタとか云うよりもむしろペドフィリア(幼児愛)と呼ぶべきだろう。一部でお子様大王の称号を得ているのも無理からぬことだ。このあたりは他の、中高生世代の美少年を描くショタ系作家たちとは全く違っている。

 そもそも、思春期前期までは男も女も大した違いはない。体毛もなく、肌もなめらかだし、プロポーションも極端には違わない。股間に一筋のワレメが走っているか、小指ほどの突起があるかというだけの違いでしかない。男装すれば凛々しい少年に化けるし、女装すれぱ愛らしい少女になってしまう。生殖器以前の存在であり、快楽は生殖器に限定されることはない。ローティーンの異装はハイティーンの異装よりもなお危険である。なぜなら、彼(女)らの性は未分化であり、わずかな衝撃によってどちらにも傾いてしまうからだ。みにおんはこのフレキシプルなジェンダーの危うさをどこか気付いているようだ。「DEAR LTTLE LOVERS」の中の一挿話に若い叔母が甥の少年を女装させて慰み物にするくだりがある。女装させられた少年はその刺激で興奮し、スカートを穿いたまま射精してしまう。そしてその後、ランドセル世代であるにもかかわらず裸で叔母と抱き合い、s最後には「やっぱり男の子ね」と叔母に云わせるくらいがんばってしまうのだ。一度、女装して女になり、男に戻る。これではまるでどこぞの部族の通過儀礼ではないか。もしこの時、彼が射精しなければ、彼のジェンダーの振り子は女の側に振り切れてしまったのかもしれない。すでに小型の男(女)としてジェンダーが固定されているハイティーンの女(男)装とはそのあたりからして違うのだ。

 みにおんがこうしたお子様モノを好んで描くのは何故だろうか? 一番単純な答はみにおんがペドフィりアだからだということになる。だがそれは一種のトートロジー(同義反復)に他ならない。考えるぺきはペドフィリアとは何かということだ。俺自身、そうした衝動がないわけではないので白己分析ということにもなるが、それはやはり「回帰願望」ということだろう。自分自身が子供に還るコト。無垢で性未分化な子供の王国に戻ること。少なくとも俺の内なるペドフィりアの根底にはそうした衝動がある。子供を抱きたいのではなく、子供になって抱かれたいのである。子供のままで子供にしか得られない快楽を味わいたいのだ。だが、俺は(来世があるならともかく)もはや、永遠に子供に戻ることはできない。その代償として俺には妄想があり、漫画というものがある。みにおんの描くお子様に自己投影することができる。その自己投影の器が漫画や小説や妄想ではなく、生きた子供そのものとなった時、それは下劣な犯罪となるワケだし、幼児殺戮者たるジル・ド・レエの悲劇となるワケだ。みにおんがどんな人間かは知らないが、むしろ少年誌や学年誌に似合う絵柄からして、秘められた回帰願望の持ち主であったとしても何の不思議もない。


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