おおのやすゆき論

永山薫


  おおのやすゆき(大野安之)はSF&ファンタジー系の漫画家の中でも、どちらかと云えば通好み、マニア受けのする作家である。作家歴は約15年。単行本は15冊出しているが、現在入手可能なのは89年以降に出た6冊だけだ。

 問題は一番新しい(と云っても出たのは95年だけど)単行本「ローティスなあじゃ」(メディアワークス・主婦の友社)である。どこが問題かと云うと、同書のあとがきでおおのやすゆきは

「ワタシに『かわいい男の子』を描かせろォォ!!」

 とカミングアウトしちゃってるのである。

 もちろん半分はシャレだろう。

 だが、俺みたいにずーっとおおのやすきを追っかけてるファンから見れば、後の半分は結構本気だなと判る。

 デビュー作であるSFスラプスティック連作「That's! イズミコ」(全6巻/スタジオ・シップ)にすでにその匂いがあった。この、恐らくは不老不死で宇宙規模の財閥の令嬢であり、マッドサイエティストである超人的女子大生極楽院和泉子の巻き起こす超絶的ドタバタを描く怪作の第2巻から嵯峨という美少年が登場する。年齢は11〜12歳。和泉子の親戚でやはり超人だ。空も飛べるし、テレポートもできるし、パワードスーツなみの怪力の持ち主でもある。もちろんただのマスコットキャラではない。彼が中心となる挿話もあり、準主役と云ってもいいだろう。彼は半神的な能力を持つ怪物であると同時に半ズボンとハイソックスの似合う小学生であり、和泉子の親友である普通の女子大生北上ゆーこの恋人でもある。

 この半神とも言えそうな超人・嵯峨の発展形が「ローティスなあじゃ」の主人公(外字なのでグラフィックで入れた。活字にあってもフォントになし。読みは「なた」「なたく」「ナージャ」)太子である。こちらはまぎれもなく神だ。しかも現在でも信仰の対象として無数の廟を持つ現役の神様である。

 怪物的神々と混沌たるシンクレティズム(複数宗教の混淆。道教では儒教の聖人も仏教の仏も神々として再配置されている)渦巻く道教世界唯一の少年神だ。軍神である中壇元帥の位を持ち、その図像の多くは手足に魔除けの環をはめた武装少年神の姿で描かれる。てっとりばやくこの神について知りたければ小説「封神演義」(講談社文庫)、「西遊記」(岩波文庫)を読めばいいし、さらに簡単なのは中国アニメの傑作「ナージャの大暴れ」を見ればいいだろう。アナーキーで暴力的で父親に叛逆し(中国文化圏では最大の罪)、自決し、蓮の花から転生するという異端の神である。

 おおのやすゆきの描く太子はほぼ既存の像を踏襲している。もちろんそこにはオリジナルが加えられているが叛逆児であることは同じだ。ここでのは母なる原理に導かれ、父なる原理に叛逆し、地位をなげうち、故郷(須弥山)を捨てた流浪の神として登場する。その流れついた先が1893世紀(年の間違いではない)の魔法と科学がよじれあうスチームパンクなロンドンで、は半ズボンに似合う小学生として学校に通いつつ、ロンドンを侵す妲己娘々(だっきにゃんにゃん)の手先や、実の兄弟である獨健太子(どうじゃんたいし)に対してはお尻が半分見えそうなレオタード風甲冑姿で戦うことになる。このあたりのアイディアと趣味をテンコ盛りにぶち込んでかき混ぜるあたりがいかにもおおのやすゆきで、これを楽しめるのは一定のマニアということになろうか?

 おおのやすゆきがを嵯峨の後継に選んだのは単にそれが美少年だったからではない。少年神であること、しかも父権、つまり男性原理に叛逆する神であったことが大きいのではなかろうか? 現実の少年はたやすく小型の男になり、オヤジになり、ジジイになる。時のうつろいは残酷である。だが、神ならば老いることはない。少年嗜好の究極は「絶対少年」の創造であるとも言えるだろう。それは「少年神」と言い替えてもいい。嵯峨の場合は女子大生のお姉さんと性交できるという身体性一点において半神にとどまるが、は生身の肉体を離れたイデアとしての「少年性」に限りなく近い。それは大人の男に成り果てた作者と読者がすでに喪失した「少年性」と「存在の理想形としての神」の融合だろうか? 少年が永遠に少年であるためには、父性原理を超えなければならない。利己的な遺伝子を駆動エンジンとする生物としての父性は少年性の延長上にあれど、それは「かくあるべきではない姿」なのだ。故に父に叛逆し、否定し、母性原理に導かれる幼神としてのこそがおおのの世界ではヒーローたりえるのだ。


もどる