ここ20年の間に同性愛を扱う漫画は着実にその領域を拡げている。それも同性愛専門誌ではなく、少女漫画や美少女漫画という同性愛誌よりは広く若い読者層をターゲットとするジャンルでその傾向が強い。元々少女漫画では24年組が「風と樹の詩」(竹宮恵子)、「トーマの心臓」(萩尾望都)をはじめとする少年愛志向の作品を次々にヒットさせ、少女のための少年愛誌「JUNE」が生まれるに至った伝統があり、そこからさらに同人誌アニパロ等の流れが加わり、現在では「やおい」と呼ばれる同性愛漫画が一つのマーケットを形成している。一方、美少女漫画と呼ばれる非劇画系エロ漫画の「なんでもあり」の混沌の中からは美少年趣味を前面に出したいわゆる「ショタコン」一派が一定の地歩を築きつつあり、今や5月5日には美少年エロ漫画をテーマとしたイベントまで開催されるわ、某誌「美少女キャラ人気投票」において女装美少年がワンツー・フィニッシュを決めるわと云う時代なのだ。
要するにハードコアな「同性愛漫画」が一般性を持ちにくいとしても「美少年の少年愛漫画」と「両性愛的な美少年漫画」はフツーの少年少女にとって、もはや異端でもなんでもなくなってきていると云えるだろう。
無論どんな世界でもピンからキリまであり、スタージョンの法則(なんでも8割はクズ)はどんなジャンルでも成立する。
例えば、今回紹介するとこやままり夫の「Honey bee blue」(一水社)はやおい系の中から生まれた佳作である。だが、それは決して「やおい」を代表するものではない。むしろ異端と云ってもいいだろう。絵柄は少女漫画で云えば佐藤史生系。ただし、少女漫画色は薄い。キメの絵はかなり透明感があるものの、照れずに下世話な線に走ることもできる。この絵柄の透明感と下世話な表現のバランスにこの人の漫画は成り立っている。
舞台は中高一貫教育の全寮制男子校。旧制高校のバンカラなイメージではなく、むしろイギリスの寄宿舎学校の感覚である。連作短編の形式を採っており、時系列にオハナシが並んでいるワケではない。話の中心になるのは虚弱体質の意澄。彼は状況に流されるタイプで、中3の時に好きでもないオタク少年と初体験したり、鎮痛剤を盗みに行って保健室の主である上級生に犯されたりしながらもスポーツ小僧の洪雪に憧れている。意澄は高校で同室になったことをキッカケに洪雪に告白するのだが、コイツがなかなか鈍感なヤツでなかなか上手く行かない。やがてなんとか相思相愛の仲なったところに先天性エロエロ少年の隆が強引に割り込んでくる。隆はやはり同室の美少年と出来ているのだが、そんなことは全然気にしていない。意澄は口では拒否し、抵抗するものの、いつも隆に押し切られずるずると関係を続けてしまう…。
ストーリーが凄いワケではない。特段の事件が起こるワケでもないし、ロマンチックでもない。ドキドキするような恋愛ゲームってワケでもないし、ややこい葛藤もない。ワルぶったカッコづけも、異端を気取るポーズもない。まるで呼吸するように読める、淡々とした世界なのだ。例えばここには竹宮恵子のような宝塚的な絶叫調もなければ「トーマの心臓」のような哲学趣味もない。JUNE系の耽美主義もありがちな「やおい少女の観念グルグル巻きホモ讃歌」もない。
実はこの「ないないづくし」こそがとこやままり夫の「新しさ」であり、異端的なところなのである。
作者は同性愛を特権化していない。本作に登場する等身大の男の子たちは同性愛行為にさほどの後ろめたさを持たず、ごく自然のなりゆきでそうなってしまう。悩むのは好きなあの子がボクのことを好きになってくれるかどうかであり、好きでもない相手と寝てしまったことに対してである。彼らには同性愛と云う認識すら欠けているのかもしれない。彼らには思い切って向こう岸に跳んだと云う意識はない。ありふれた表現だが、好きな相手がたまたま同性だっただけであり、そのスタンスは両性愛である。
同性愛者であることの苦悩と恍惚を実感する人々、カムアウトすることに命をかけた人々から見れば「判ってない」のかもしれない。テレビのお笑い番組で世間のゲイ・フォビア(同性愛恐怖症)に迎合した恥知らずなゲイ差別ギャグが垂れ流されているのが現状である。世間だって個人だって全然解放なんかされちゃいないのだ。だが「判ってない」からこそ、あるいは「判ってないフリ」だからこそ、云えてしまえる「真理」と云うものだってあるわけだし、現状を無視して、ポンと呈示されたフィクションの中に、ありうべき自然の姿が描き出されることだってある。とこやままり夫の世界はその意味で妙に自然体だし、変にリアルなのである。